阪急・長岡天神駅まで輪行。そこから東へ適当に行けばあの寺田屋にいけるだろうと思い、適当に進んでいった。桂川を越えて、しばらくいくとアレッ?iPhoneで現在位置を確認して、さらに進むと伏見に着いた。時刻は15時をまわっていたけれど人が多いこと、、、龍馬伝効果である。カッパ黄桜で有名な黄桜酒造の横でパチリ。あまりに木の壁がきれいだったので。
次は寺田屋へ。以前から観光客は多かったが、きっと朝から晩まで多いのだろう。寺田屋の女将やお龍もいたと思われる船着き場の階段は今でもきれいに残っているが、こちらには観光客はほとんどいなかった。過去に中に入ったことがあったので今日は素通り。
寺田屋襲撃事件では、龍馬は材木小屋に逃げ込み、その後薩摩藩邸にかくまわれたそうだ。では行ってみよう。ところが藩邸が見つからない。藩邸跡の石碑があるだけと聞いたがそれが全く見つからない。そうこうしている間に、寺田屋事件で殉職した薩摩藩士の墓が大黒寺にあるとわかり、そこに行くことにした。同じようにここを尋ねて徒歩でカメラを提げた男性(=カメラさんという)に出会った。「薩摩藩邸跡って行かれましたか」「それがまだ見つからないんですよ。私はこれから探しにいきます」と言っていた。カメラさんはお墓の写真を撮影するのは良くないかな、、、とおっしゃっていたがそのとき私は既に撮影済みだった。
こちらは自転車なのですぐ見るかるだろう。近くの伏見市役所の横の道に観光マップがあり、なるほど薩摩藩邸跡と書いてある。近い。少し戻って左、右、左、、、簡単に行けそうだ。ところが全くわからず、あげくの果てに近くの通行人にも尋ねたが、有力な情報は得られなかった。フラフラしていると、なんと前を歩いているのは件のカメラさんではないか。何やら通行人の老人に何か尋ねている。近寄って会釈すると、龍馬が逃げた材木小屋の場所を聞いていた。老人との話が終わると、まだ薩摩藩邸跡を見つけられていない私に、少し戻ったところにあると教えてくれたのでそちらに向かうことにした。ところがこれが見つからない。伏見の街はかなり細い路地も多くなかなか大変である。結局見つけられなかったので帰ろうとして橋を渡ると、またカメラさんに出会った。その場所こそ、材木小屋のあった場所らしい。
カメラさんは寺田屋まで戻り、中書島から帰ると言っていた。実際に龍馬が襲撃されて逃げた距離を自分の足で体感することが目的らしい。日の入り時刻はかなり速くなっていて桂川を渡るときはもう夕暮れ時になっていた。思い立って、すぐ輪行して、、、、京阪神はそういう意味で輪行向きだ。今から150年前、坂本龍馬がこの地でお龍さんと出会い、新撰組に襲撃された地に、高杉晋作が労咳のために断念した留学先であるイギリスで生まれた自転車で尋ねた輪行だった。明治から大正、昭和、平成と大激変だった日本。これから100年、50年、20年後はどうなっているのだろうか?
(写真はGR DIGITAL II)
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